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楽しかった 楽しかった 研修旅行 (小松洋子様) 第1弾

 

小松洋子様プロフィール

中学生の折、フランス語に出会い、少し習う。そして興味のあったフランスと周辺の国々を周る日仏文化協会の第4回研修旅行に学生時代に参加。30代にて商業フランス語を学びはじめ、40代ではフランス留学も経験。 フランス古書専門店、在日フランス語圏大使館、フランスのフォワーダーなどに勤務の傍ら、翻訳、通訳も手がける。 介護離職し、フランス語と距離を置く時期もあったが、お母様を看取った後、フランス語学習を再開。

 

トロカデロにてマダム村瀬(黄色のコート)と

創業50周年おめでとうございます。

私は今を去ること40ン年前、まだ学生でしたが、日仏文化協会のヨーロッパ研修旅行に参加させていただき、ヨーロッパをおよそ1ヵ月かけて(そのうち2週間ほどはフランス国内)周り、たいへん貴重で、有意義で、また楽しい楽しい経験をいたしました。

 

海外旅行が今ほど盛んでなかった当時の様子を記憶をたどりながら、懐かしく思い出しながら、ちょこっと書いてみることにいたします。

 

 

 

 

 

 

 

出発まで

出発前に日仏文化協会さんから配布されたパンフ
トラベラーズチェック購入控え

参加申し込みをすると、溜池の当時の日仏文化協会のオフィスでオリエンテーションと毎週マダム村瀬(注:当時の日仏文化協会の社長の奥様。ご夫妻は社内でムッシュー、マダムと呼ばれ、フランス語が堪能なご夫妻は憧れの的でした。以下、マダムと略。)によるフランス語会話レッスンがあり、何回か通いレッスンを受けました。当時の溜池は、南北線もまだなく、したがって溜池山王や六本木一丁目の地下鉄の駅もなく、アークヒルズももちろんなく、虎ノ門と赤坂見附にはさまれた人通りの少ない実に静かな町でした。オフィスは溜池の交差点からほど近い外堀通りに面したビルの中にあり、レッスンはサロン風のお部屋でソファに腰掛けながらで、レッスンというよりお茶会という雰囲気で、出発までに他の参加者の方々とも顔なじみになっていました。

 

オリエンテーションの折、マダムからフライトスケジュールのお知らせがありました。当時はヨーロッパ直行便など夢のまた夢で、アンカレッジ経由かモスクワ経由の北回り、アジア、中近東を何回かストップオーバーする南回りのフライトがありました。皆北回りをひそかに(?)期待していたのですが、ルフトハンザの南回りしかチケットがとれなくて、これに決まったそうです。皆ちょっと複雑な気持ちだったようです。

 

その他パスポートの申請やトラベラーズチェックの手配の仕方などすべて、マダムに手取り足取り教えていただき、パスポートに至っては取得後、当日持参するのを忘れないようにマダムにお預けし、出発当日羽田にて彼女から全員にあらためて手渡されるという、今では信じられないほどの慎重な準備でした。また、当時はクレジットカードなど学生の身分で持っているわけなく、(持ったとしても現代のように海外で使えたかどうか?)USD(注:アメリカ合衆国ドル)の現金か、ドル建てのトラベラーズチェックを用意するしかなかったです。日本円の持ち出しも10万円までと制限されていました。この現金を持ち歩くことには旅行中、常に結構神経を使いました。

 

フランクフルトへ向けていざ出発

ヒースロー空港?

出発当日、羽田空港には母、祖母、弟が見送りに来てくれました。チェックインを済ませると廊下のガラス戸越しに、送迎デッキ入場券を購入した見送りの家族と会話ができ、こまごまと最後の注意など親からあり、いざ搭乗です。他の参加者の方々もご家族がいらしていて、まさにそういう時代だったのですね。

 

就航してから2~3年のボーイング747に乗り込み、1列7席のジャンボ機におどろき、「ああ、日本を発つのね」としみじみ思いながら 席(真ん中の4列の左から2番目)につき、離陸を待ちました。
ところが離陸時間が過ぎても飛行機がなぜか滑走路あたりで立ち往生で、機内アナウンスも何もないまま小一時間ほどたち、やっと離陸しました。(帰国後、家族の話では、なんでも飛行機から白い煙がでていて、どうなることかと心配で離陸するまで帰宅せずに待っていてくれたそうです。)


香港、バンコク、デリー、クウェートとストップオーバーし、フランクフルトまで本当に長いフライトでした。それぞれの空港の様子などほとんど忘れてしまいましたが、唯一覚えているのがバンコクの暑さです。もちろん冷房はあったと思うのですが、何しろ異常なまでに蒸し暑く、気温が40度ほどあり(どこかに温度計があったのでしょうか、誰かが「わー、40度!」と叫んでいました。)この国にヒトが住んでいるなんて信じられないと思いました。
それとストップオーバーするたびに、離陸後ほどなく機内食サービスがあり、じっと座席に長く座っている乗客としては、もうとてもお食事など無理無理無理!で閉口しました。今ではお断わりできると思いますが、あの頃は出されたものはいただくといった雰囲気で、とてもお断りできる状況ではありませんでした。そんな思いをしながらやっとフランクフルトに到着しました。


初めて降り立った外国は、小雨降る静かなフランクフルトでした。みんな少し緊張した面持ちで、空港の両替所でドイツマルクを入手して、バスでホテルに向かいました。その後国を変わるたびに両替所に皆「チェンジ、チェンジ」といって駆け込むことになりました。

 

ロンドンを経てフランスへ

さて待望のフランスへは、イギリスのドーバーからフランスのブーローニュ(パリではありません!カレの近くの町です。)に当時最新鋭のホバークラフトでドーバー海峡を渡って入りました。その後この乗り物は普及しませんでしたが、この船(?)は、水陸両用で地面や水面から少し浮いた状態で走行し、従って高速走行のできる乗り物です。

ドーバー、ホバークラフト乗り場にて青いりんごを齧るヤマさんを囲んで(右からマリちゃん/ヤマさん/私/ワニちゃん)

ターミナルの待合室の窓から、すでに陸地で乗客を乗せたホバークラフト船が、海岸に向かってなだらかなスロープを下ってそのまま水面上に(それでもドボンと)降りる光景は、結構圧巻で見ごたえのあるものでした。我々も次の船に乗船し、この“ドボン感”を感じながら船上の人となりました。船室は結構広く、壁際に中央に向けて座席が設けられていて、乗り合わせた金髪の長髪をなびかせた少年と話し始め、彼がカナダ人で14歳と聞き、「私たちも14歳よ!」と大ウソをつき(みんなとっくに二十歳は過ぎていました。)ましたが、まったく疑われず少しショックを感じながら楽しくフランスに着きました。


「フランスに着いた―!」「やったー フランス!」「フランスだあ!」
「は~るばる来たぜフランスへ~」

 

パリのホテル

当時パリで買ったパリの地図。

表紙の材質が今のものと違いますね。

この旅行は陸地での移動はすべてバスで(私はその後1日は汽車で移動することになるのですが、後述します。)、ブーローニュからもパリまで一気にバスで上りました。


パリのホテルは、セーヌ川沿いのPalais d’Orsayという古いホテルで、現在はオルセー美術館になっています。マダムから出発前に、「パリのホテルは、一応四つ星ですがかなり古いのであまりきれいではありません。」と伺っていましたが、やはり古~くて、部屋の洋服ダンスの鏡のついた扉は、開けたら最後壊れそうでした。今回この原稿を書くにあたって、改めて調べてみたところ、この建物はそもそも1900年のパリ万博のためにフランス西部からの鉄道の終着駅の駅舎兼ホテルとして建てられたもので、当時はすでに鉄道の駅としては使われていませんでしたが、1900年からホテルとして使われていたとしたら、古くても納得がいきました。建物は古かったですが、それだけに造りはクラシックで、玄関を入ると正面にシンデレラが駆け下りたような幅の広い大階段があり、途中から左右に分かれて上がるようになっており、カラフルなペルシャ風の絨毯が敷かれていて、手すりもアールデコの植物の蔓がぐるぐる回っている模様の細工がしてありました。(この手すりのデザインは今でもフランスではよく見かけますね。)私の部屋は2階の102号室(この番号は何故か今でもよく覚えています!)で、2階までこの階段を正面から登って途中で左に折れて登っていました。ちなみにこの102号室、フランス語で“cent deux”、外出から帰ってフロントで鍵を貰うとき用に何度も「サン ドゥ」「サン ドゥ」と発音の練習を一人でしました。rもvも入っていない数字でラッキーでした。


朝食はフロントの向かいの食堂で(レストランではなく食堂だったと思います)。
数人の年配のガルソンが右手に“café ou thé(注:コーヒーまたは紅茶)”の入った白い陶器のポット、左手にミルクの入った同じ白い陶器のポットを持って「café ou thé?」と各テーブルを回って宿泊客一人一人に聞いて回っていたのが何とも印象的で、今でもその光景をはっきりと覚えています。そこでお客が例えば「café, s’il vous plaît(注:コーヒーをお願いします)」と頼むと、そのガルソンがthé担当の場合は黙ってその客をパスして他に行き、café担当の場合は、即座に両手のポットを傾けて客のマグカップ(というよリむしろボール)にコーヒーとミルクを同量巧みに注いでくれます。それがすごく上手で、私はいつもみとれていました。すべてがまだまだアナログの時代でしたね。

 

参考:オルセー美術館の歴史

 

 

パリ滞在

あまり記憶が定かでないのですが、パリに2~3日滞在し、その後バスでささっとフランス一周してまたパリに戻り、2~3日滞在してスペインへ?だったかと思います。その最初のパリ滞在時は、ノートルダム寺院、モンマルトルの丘、エッフェル塔、シャイヨー宮、ルーブル美術館、コンコルド広場などステレオタイプのパリ観光名所を、お上りさんよろしく、全員でバスで回ったと思います。それでも結構自由時間があり、仲良くなった方達とリュクサンブールやチュイルリー公園を散策しました。公園のベンチ…オッとそうではなく、グリーンに塗られた鉄製の一人用の椅子、これは有料だと聞いてはいましたが、無視して座っていると、どこからか料金係のムッシューが現れて、料金を徴収されました。わずかばかりの料金でしたが、面白いことに、背もたれと腰掛ける面だけの椅子と、ひじ掛け付きの椅子と微妙に料金が違い、あの大雑把なフランス人でもこんなところが細かくて、(ここだけの話)笑ってしまいました。

 

パリ・シャンゼリゼにて

(人が少ないですね)


自由行動の折のランチは、セルフサービスのレストランを誰かが見つけ、そこでとっていました。これはcité universitaire(注:大学都市)のレストランそのもので、広くはないのですがパリの街中にあり、好きなものだけ安く食べられて便利でした。その後すっかり姿を消してしまい残念ですが、おそらくファストフードにとってかわられたのでしょうね。


ショッピングもしました。当時はまだまだ“ブランド”という単語も使われておらず、もちろんサントノレ通りなどだれも知らず、行ったところはパリのどこかの免税店。私の唯一買いたかったのはラコステのポロシャツ。そのころ日本では、ラコステの他にロゴの入ったものといえば、ジャック・ニクラウスのゴールデンベア、ペンギンロゴのマンシングウエアぐらいで、ラコステのポロは結構高級品の部類で、フランスに来たら、これを安く買いたいと思っていました。ところが同行の友人たちは「エルメス!エルメス!」とエルメスに夢中です。私は「えっ、えっ、エルメスゥ?ナ―ニソレ?」というぐらいエルメスを知らず、皆がスカーフだのなんだのを夢中で選んでいるのを尻目に、一人ラコステを選んでお揃いで着ようと家族の分と、自分の分を買いました。これは結構気に入って、その後の旅行中もちょくちょく着ていました。


「猫に小判、豚に真珠、小松洋子にエルメス!!」

 

パリからモン・サン・ミッシェル、サンマロへ

Nice

バスのドライバーのマニュエルと(スペイン人)

いよいよ、パリとはしばしお別れで、フランス一周小旅行の始まりです。この日、マダムから、これからずっと私たちをバスであちこちと運んでくれるドライバーのスペイン人のマニュエルを紹介されました。30歳前後の小柄な男性で、いつもグレーのズボンに赤の縦じまのポロシャツで、一見静かそうな感じでしたが、そこはラテン系の民族、ノルと結構面白くて、我々jeunes japonaisesの格好のおちょくり標的となりました。今思えば 日本人小娘といえども多勢に無勢で、しょっちゅうからかわれて、一人でさぞタジタジしていたことでしょうね。その頃は、そんなことつゆほどもこちらは思いませんでしたが。

 

(つづく)