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楽しかった 楽しかった 研修旅行 (小松洋子様) 第4弾

 

小松洋子様プロフィール

中学生の折、フランス語に出会い、少し習う。そして興味のあったフランスと周辺の国々を周る日仏文化協会の第4回研修旅行に学生時代に参加。30代にて商業フランス語を学びはじめ、40代ではフランス留学も経験。 フランス古書専門店、在日フランス語圏大使館、フランスのフォワーダーなどに勤務の傍ら、翻訳、通訳も手がける。 介護離職し、フランス語と距離を置く時期もあったが、お母様を看取った後、フランス語学習を再開。

 

再びパリへ

パリの地図

当時購入して大活躍してくれた

ボルドーカラーの地図

凱旋門

現在の凱旋門の様子

フランス国旗がはためいて

駆け足でジュネーブを見て、一行は再びパリへ。再びなつかし(?)のPalais d’Orsayホテル滞在です。この2,3日は殆どフリータイムで各自好きに過ごせるスケジューールでした。私はこの期間どこへ行ったのか全く覚えがなく、ただ覚えているのは、あのボルドーカラーの表紙の地図を片手に、一人でメトロを乗り継いでどこかに行っていたことです。どこに行っていたのでしょうかねえ、一人で。


そうそう、一つ思い出しました。ワニちゃんと二人で凱旋門に上りました。足を使って階段でです。その時はそばで見ていたにもかかわらず凱旋門があんなに高いと思わず、軽いノリで「階段で行く?」「OK!」と決めてしまったのですが、これが実際登ってみると、もう大変!登れど登れどゴールは程遠く、おまけにあの建物の中を上っているので、外の景色も見えず、従ってどのくらい上がってきたのかもわからず、いくら若かったとはいえ、ものすご~くしんどかったです。「ねえワニちゃん、まだぁ?」「うん、まだみたいぃ」「まだねぇ」など言いながら・・・ それだけに、あの上の博物館のようにいろいろな資料を展示してあるフロア(こういうのがあること、登り切るまで知らなかったです。)に到達した時には喜びもひとしおで、そこをさらっと見学し、さらにその上の屋上(って言っていいのかしら?)に上った時は、外界の新鮮な空気に触れた心地よさと、疲労感から解放された達成感、パリの景色を一望できる喜びで文字通り天にも上る気持ちでした。モンマルトルの丘やエッフェル塔など、パリ市内を一望できるところは他にもありますが、狭いスペースでパリ市内360°ぐるりと見えて、なおかつシャンゼリゼ通りの美しい並木(この通り、上から見たほうがずっと美しいですね)がすぐ見られ、凱旋門を起点にパリの12本に放射状に広がる道路も眼下に確認できるところはここだけだと思って、ここは結構私のお気に入りの場所になりました。今のように行列でエレベーターを待つこともないくらい観光客も少なくて、外の心地よい風にあたりながらこのパノラマを満喫していると、紺色の制服を着たおそらく凱旋門のガイドさんが近寄ってきて、いろいろ説明してくれました。「あれがグランパレ、こっちがプティパレです」とか視界に入る主要な建物を教えてくれ、「ふむふむ。あ、そうですか。それであれは?」など聞いたり、周りをぐるっと見たりで楽しいパノラマ展望でした。帰りはもちろんエレべーターで降りたと思いますが、今調べてみたらこの凱旋門の高さは普通のビルの12階に相当するそうで、そこを階段で上ろうと思ったとは知らなかったとはいえ「あー若かった」。

 

 

パリの地下鉄

ここでちょっとパリの当時の地下鉄のお話しを。

 

Portillon(ポルティオン)

当時のパリの地下鉄の全駅(だったと思います)には、ポルティオン(portillon)と呼ばれる鉄製の緑(パリの公園のベンチと同じ色、同じ素材)の扉がホームの入り口に設置されていて、電車がホームに侵入してくると自動的にそのPortillonが閉まり、通路から乗客が慌ててホームに入って駆け込み乗車ができないようになっていました。
当時は地下鉄の路線もそんなに多くなく、改札口もおそらく一駅に一か所ぐらいでしたのでそれも可能だったのでしょうね。また人も今ほど多くはなくて、日本のラッシュアワーなんて考えられないパリだったと思いますが、そういった危機管理はしっかりしていたのですね。現在は日本でもJRや地下鉄の駅にホームドアが設置され、安全管理もなされるようになってきましたね。
今思い出してもあのグリーンの鉄のドアの素材感はいかにも重厚で威圧的で、日本では駅のドア(しかも割と大きな)など見たこともない私には、あのほの暗いホームの丸い壁と相まって、異国のちょっとした緊張を呼び起こすものでもありました。
(余談になりますが、あのportillonは日本式の「引き戸形式」ではもちろんなく、開閉時に90°回転する「観音開き」でしたので、開閉時に場所を取り、付近に乗客がいたら結構危なかったのではないかと後から思いました。それで、利用客の増加とともになくなったのかしらなんて勝手に想像しています。)

 

 

Carnet(カルネ)

地下鉄にはカルネという10枚(?)一組の回数券を利用して乗っていました。このことは出発前にマダムから教えていただいており、当時はまだ自販機ではなく、窓口に駅員さんが座っていて、「Un carnet, s’il vous plaît」と言って買いました。日本では今でこそJRでも私鉄でも回数券は一枚ずつ分かれていますが、以前は電車の回数券もミシン目で11枚つながっていましたので、このバラバラのカルネ、失くしそうで、なんと保管しにくいものかと思いました。パリ全線どの区間、どれだけ乗っても切符一枚で、そこのところは極めて便利でよかったです。

パリのカフェ
パリのシックなカフェの様子
パリのカフェ
散策の後、カフェでのホッと一息は至福の時間


 

それで、このカルネとパリの地図でパリの2~3日を楽しんだはずですが、記憶がどうも・・・ 真夏でしたので結構のどが渇き、しょっちゅうカフェでのどを潤していました。お気に入りは「オランジーナ」と「シトロン・プレッセ」で、近年、日本でも「オランジーナ」が輸入され、ある日TVのCMで突然見たときには、飛び上がらんばかりの感激で、「うわー、なつかしい!!あの瓶の形、ガラスの凸凹、キャップとラベルの青、皆昔のまま!!これが日本で飲めるのね!ン十年ぶり」と一人で大はしゃぎしました。「シトロン・プレッセ」は注文すると、今の日本でいうグリンピースかマッシュルームの缶詰で手のひらに入るくらいの小さいサイズのがありますが、それくらいのサイズの濃縮したレモンジュースの缶詰がポンとテーブルに置かれ、自分で缶を開け、ゴブレット(氷がはいっていたかどうか・・・)に注いで、お水で薄めて飲んだかしら?とにかく缶詰がそのままポンと置かれることにビックリしましたが、これがすごくおいしくて、病みつきになっていました。これは日本で言うレモンスカッシュと同じです。日本では、まず缶詰で出てこないですけれど。

 

 

少し大人のパリの夜

モンマルトルの丘
モンマルトルの丘

パリ滞在の最後の夜ぐらいだったと思うのですが、パリのナイトツアー、あのフレンチカンカンで有名なキャバレー「ムーランルージュ」のナイトショーを見に行きました。これはあらかじめオプションでスケジュールに組み込まれていて、大方全員参加しました。
バスでモンマルトルの丘の近くの「ムーランルージュ」に着いて、赤い風車のネオンサインの建物に入り、フロアの席につきました。客席はほの暗く、各テーブルにはろうそくが灯され、ステージではショーが行われていました。メインイベントのフレンチカンカン迄にいくつかのショーがあり、お客はお酒をいただきながら、それぞれのショーを楽しみます。私の印象に残っているのは、水槽を使ったイルカショーです。イルカショーと言えば、日本では鴨川シーワールドとか、当時はまだなかったですけど八景島シーパラダイスとかいずれも屋外を想像しますけれど、ここは屋内しかもキャバレーのステージです。ステージいっぱいに大きな水槽が現れたときは、もうびっくり!!その中に一頭のイルカがゆうゆうと泳いでいて、そこへブロンドの人魚の扮装をした美女が出てきて、一緒に水槽で仲良く楽しそうに泳ぐのです。それが驚いたことに、その美女は人魚の扮装なので、ウエストから下、要は下半身がすっぽり人魚の衣装で覆われていました。青緑色でうろこが描かれていて、なおかつ金ぴかのスパンコールのついた衣装で、先端には尾びれがついています。ですので、足は全く自由に使えない状態で、鈴木大地選手も真っ青なバサロキックで水中を泳ぐのです。あれは相当な腹筋力・脚力でしょうね。私など考えただけでも疲れてしまいます。もちろん終始泳いでいるわけではなく、水槽の縁に座ってイルカに芸の指示をしたりで、それなりに休む時間はあるものの、やはりすごいと思いました。イルカに色々芸をさせた後、最後はその美女が水槽の縁に腰掛けて、つけているブラをさっとはずし、胸をあらわにして、ブラをイルカに向かって投げて、イルカが輪投げの輪よろしくそのブラを体に引っ掛けてキャッチし、美女が両手を高く挙げて決まり、観客の拍手喝さいのうちに幕となりました。
「あーすごかった!」


この水槽を使ったショーは今でもあるようですが、今はイルカではなく、美女が大蛇を体に巻き付けて水槽の中で泳ぐのだそうで、「あなおそろしや。」よりグロテスクになりましたね。私の時は可愛いイルカでよかったです。
その前後には、当時の日本では女子学生はまず見ない(見られない)ようなちょっと大人向けの寸劇やショーがあって、いよいよフレンチカンカンの始まりです。あの「カステラ一番、電話は二番~」のCMでおなじみのオッフェンバックの「天国と地獄」の曲にのって、danseuses(踊り子たち)がスカートの裏に段々のフリルがいっぱいついた定番の衣装で次々に登場し、エネルギッシュに、華やかに、スカートをまくってステージ狭しと踊ります。「チャン チャ-ン チャカチャカチャンチャン~~~」彼女たちが次々とジャンプして降りる時にgrand écart(両足を前後に180°開くポーズ)で着地するのですが、その時のシンバルとか打楽器の「ジャーン」という音がより強烈なインパクトを与え、その場の雰囲気をさらに盛り上げ、観客は思わず引き込まれてしまいます。当時の衣装は頭にボンネット、足はブーツでスカートの内側は白のフリルで、あのロートレックのポスターにあるようなその時代を彷彿とさせる伝統的なスタイルのもので、現在のトリコロールのカラフルなものとは少し違っていました。衣装は今よりやや控えめ、でもダンスはパワフル、エネルギッシュなもので、あの華やかさは今も昔もそのまた大昔もきっと変わらないのでしょうね。
でも落ち着いてよく考えてみると、人前でスカートをまくって踊るなんて、まあなんということでしょう!しかもそれが立派な文化となり花開き、世界に名だたるフランスのショーとして成立するのですから、フランスって不思議なお国柄ですね。日本では考えられませんものね。
まあいずれにしても、どのショーも洗練された演出で、フレンチカンカン以外は少しエロティックで、

ちょっぴり大人のパリの夜…でした。

 

参考:ムーランルージュ公式日本語サイト
http://www.moulin-rouge-japon.com/

 

ムーランルージュの歴史リンク:
http://www.moulin-rouge-japon.com/topics/history.html


 

パリのメトロで・・・?

思い出のMonsieurと
思い出のMonsieurと

パリ滞在中のことですが、いつものようにあのポケットサイズの分厚い地図を片手に、パリ市内を歩き回り、(どこに行ったのやら覚えていないのですが)夕刻ホテルに戻ろうと思い、駅のホームで地下鉄を待っていました。(これもどの駅か今となっては全くわからないのですが)ほどなく地下鉄が到着し、乗ろうとドアに近寄ると、一人の白髪の初老のフランス人紳士が同じドアからやはり乗ろうとしていました。見れば、グレーのスーツに、白いYシャツ、サーモンピンクのネクタイにピンクのフレームの眼鏡。「わー、オシャレー、よく似合ってるぅ(ちょっと太めだけど)。日本にはちょっといないわね」な~んて思った瞬間、私とチカチカチカ―ッと目が合ってしまいました。ドキッ!それで同じドアから地下鉄に乗り、どちらからともなくお話しが始まり、何を話したのかは忘れましたが、「どこの国の人か?」とか「年齢は?」とか恐らくとりとめもないことだったと思うのですが、なんか気が合ったのかお話しにパッと花が咲いてしまいました。そのうち、私の滞在しているPalais d’Orsayホテルの最寄り駅のSolférinoに着いたので降りると、彼も降りたのです。「あらっ」と思ったのですが、彼もこの駅で降りるのねと思い、そのまま改札を出て階段を上って地上に出ました。そこは小さな交差点際で、そこを右にグルグルッと180度回転してそのまま通りを直進すると、セーヌ河畔のPalais d’Orsayホテルに至るのでそのようにグルグルッと回って歩き出すと、またまた彼もグルグルッと回って私と一緒に歩きだしました。
「ちょ、ちょっと、なんなの?ちょっとこわいかも…」と思いつつも、二人並んでお話ししながら歩きました。道すがら彼は自分が某航空会社の美術担当で、外国を飛び回って仕事をしていると話してくれ、途中立ち止まって、持っていたアタッシュケース(当時、日本でもサラリーマンの営業担当の方たちはこれを持ち歩いていました)を開けて、ご自分の撮った写真などを見せてくれました。「これ、ロンドンのピカデリーサーカスです」とかなんとか色々見せてくださり、私もほどほどに相槌を打ってその場を繕うものの、内心ちょっと不安。
(あの~それで~あなたどこまでいらっしゃるのですか?私、ホテルに帰るのですけど… ああ、この状況どうなるのかしら?)など頭の中でグルグル思いめぐらしながら並んで歩き、それでも途中でしっかりとTwo shotsの写真も撮り(通りがかりの誰かに撮ってもらったのでしょうね。今のようにスマホの自撮りもない頃ですし…)、「どうすればいいの?どうなるの?どこまで一緒にくるのかしら…」それでも「Ah, Oui, Monsieur!」などと適当に不安を隠しつつ話しながらホテルに着きました。やれやれ。
ホテルの正面で、サアこれでお別れとホッとしたのですが、なんとなく名残惜しかったけれども「ホテルに着きました。では これにて…」とご挨拶しました。するとこの紳士もなんとなく名残惜し気で、これまたどちらともなく「これから文通することにしましょう」ってことになり、(当時としても、いい年の大人が文通って中学生みたいでおかしいですよね)ご自分の名刺をくれました。それは日本の名刺と横幅は同じ長さなのですが、縦が少し長くてやや正方形に近いものでした。しげしげ見ると、先ほどの話の中で聞いた通りの某航空会社の住所と役職、お名前がありました。「もしかして案外信用できるかも?」などと思いながら、「ではau revoir(さようなら) ! 」と握手して別れました。(私も東京の住所をお教えしたかどうかとんと記憶にないのですが、どうしましたかしらねえ、この時。)ホテルの部屋に戻っていただいた名刺をさらによく見ると、これまでの日本の名刺にはない或ることに気が付きました。それは文字の字体です。今でも日本人の名刺で裏に横文字が印刷されている場合、たいていは活字体で表記されていますよね。でもこの名刺には筆記体で書かれていたのです。今この原稿を入力しているPCで類似のフォン

フォント

名刺にあった筆記体のフォント。
アルファベットの国ならではのセンス!

トを探すと、それに近い筆記体のフォントがありましたが、個性的な感じのものでした(写真参照)。まだ日本人の名刺が縦書きだった頃、この筆記体の表記は私にはとても新鮮で、「なるほど、横文字文化の国では、こういう名刺が使われるのね。さすがアルファベットの国ね。お箸の国ではこうはならないわね」と一人で感心しました。(この名刺、帰国後もずっと大事に保管していたのですが、自室の「欧州旅行記念グッズ保管用缶」に入れず、別にしておいたのが運のつきで、現在どこを探しても見つかりません。自宅をくまなく探せばあるいはどこかにあるのかもしれませんが、残念なことをしました。でも記憶はしっかりあります。)
ホテルの部屋に戻って、「日本に戻ったらさっき撮った写真を現像して、このMonsieurに送って差し上げましょう」と決め、大事に名刺をしまい、このことはワニちゃんにも誰にもたぶん内緒にしていました。

 

 

 

ここでちょっとタイムスリップして私が帰国後、果たしてこのMonsieurと文通することができたのでしょうかお話ししますね。

 

帰国して大量にとった写真を現像し、日仏文化協会の写真交換会も終え、落ち着いてきたころ、そろそろMonsieurにあの時のTwo shotsの写真を送ってみようということになりました。まあ何事も「言うは易く行うは難し」ですが、これもご多分に漏れず、辞書と首っ引きで、「あの時、なんで文通しましょうとか決めちゃったのかしら。これって大変!やめとけばよかった、あ~あ」と散々苦労して,最後の方はもう投げやり適当でしたが なんとかフランス語の手紙をやっとの思いで書き上げ、写真を同封し、「どうかちゃんと届きますように」なんて殊勝にもお祈りしながら、いざ伺っていた某航空会社の本社宛てに投函しました。

メキシコから届いた手紙と封筒
メキシコから届いた手紙と封筒
メキシコから届いた手紙と封筒

しかしながら、待てど暮らせど1か月たっても2か月たっても返事はなく、「やっぱり 世の中こんなもんなのね。まあ仕方ないかも…」家族からも「そんないい大人があなたみたいな小娘、相手にしないわよ」とか言われ、「そうかなぁ、そうねえ」と半ばあきらめの境地でした。そして、もうすっかり忘れかけていたある日突然、Monsieurからお返事が届いたのです。それもなんとメキシコから。「ヤッタアー、来た来た」待ちに待ったお返事です。喜び勇んで開けてみました。すると茶色い大きな紙に、手書きでさらさらとフランス語が書いてあります(当たり前ですけれど)。「えー、なんて書いてあるの?読めな~い。」今ならそれなりに齢を重ね、経験も経て彼の手書きが読めるのですが、さすがにこの頃はなかなか読めず閉口しました。でも私の手紙をメキシコで受け取ったと書いてあり、パリの某航空会社のどなたかがメキシコに転送して下さったのかと思うと、それも嬉しくて感動しました。「やっぱり世の中捨てたものじゃないわね。」このフレーズ、今回の旅行を通しての私が知らず知らずに得た処世訓になったかもしれません。とにかく外国から、わけても現地で知り合ったフランス人の方からお手紙をいただくなんて初めてのことで、一人でパリの街を歩いたのも悪くなかったかもね、と一人悦に入っていました。そしてまたすぐに、辞書を片手にお返事を書いて送ったと思います。
その後年が明けて、新年のカードが届き、それはしっかりパリから出されたものでした。「ああ、パリに帰られたのね」と思い、これも感激でした。このカードは15㎝四方の大きな正方形のカードで、中には黒のサインペンで大きくメッセージが書かれていました。こんな大きなカードを見るのも初めてでビックリしたのですが、それだけに字も大きく、また内容も決まりきったことなので何とか判読でき、「ああ、よかった!」なんて思い、かなりフランス語で背伸びしてお話ししながらパリを歩いたとつくづく思い返しました。
その後、やっぱりフランス語の辞書と格闘しながら仏文の手紙を書くのが、もう正直言ってかなりしんどく、当初の意気込みはどこへやら、自然と文通が途絶えてしまいました。残念なことでしたが、これがまあ普通の成り行きというものでしょうか。でもメキシコからお返事いただけただけでもありがたく、うれしかったです。

 

「待てば空路の手紙あり」

 

 

 

今思ってみても、あのグレーのスーツにサーモンピンクのネクタイ、ピンクのフレームの眼鏡をかけた初老の紳士なんてめったにお目にかかれないですよね、普通は。日本ではその後も全くそのような紳士はお見掛けしません。おそらくパリで最初で最後。お仕事柄、美術芸術関係なのでセンスがちょっと違うのかもしれませんが、そういった方たちの良くある独特な(あるいは突飛な)服装ではなく、普通のスーツ姿でオシャレなところが私にはグッと来てしまいました。あの西洋人の色の白さと、白髪(もしかしたらもともとこの色の髪だったかも?)とスーツのグレーとピンクのタイと眼鏡、絶妙なマッチングでした。今言うところのメタボのフツーのオジサマなんですけれどもね。(ごめんなさい!)でも「袖すり合うも何かの縁」というように、人生のほんの一点でしかない短い時間でしたが、あの静かな佇まいのホテルまでの通りを歩きながらお話ししたことは、何とも趣のある良い経験でした。今は私が当時のMonsieurの年齢を超えていることを思えば感無量です。きっと東洋のちっちゃな小娘と思ったことでしょうね。よい思い出です。
と、こんなことを思い出しているうちに、時計を元に戻して、再び旅行中のフランスへ。日本を出発してから20日あまり。楽しく、いろいろな経験をしたフランスともいよいよお別れ、お世話になったドライバーのマニュエルともここで別れをぐっと惜しんで、次なる滞在地マドリッドへ向けて我々一同いざ出~発!

 

“So long, farewell, Auf Wiederdersehen, good-bye,…  Vive la France!”