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楽しかった 楽しかった 研修旅行 (小松洋子様) 第3弾

 

小松洋子様プロフィール

中学生の折、フランス語に出会い、少し習う。そして興味のあったフランスと周辺の国々を周る日仏文化協会の第4回研修旅行に学生時代に参加。30代にて商業フランス語を学びはじめ、フランス古書専門店、在日フランス語圏大使館、フランスのフォワーダーなどに勤務の傍ら、翻訳、通訳も手がける。 母の介護のため介護離職し、フランス語と距離を置く時期もあったが、母を看取った後、フランス語学習を再開。

 

 

レマン湖

病み上がり 移動途中の駅にてワニちゃんと

さてさて、滑り込みセーフで汽車に乗り込み、中に進むと、なんとうれしいことかその客車はコンパルティモン(compartiment)で、今まで映画などでしか見ることのなかったあの個室の列車でした。「わー コンパルティモンよ!うっれしい!」羽田を発つ時には、夢にも思わなかった汽車に乗ることとなり、不安もありましたが、これに乗れるとは、ああラッキー!!トゥールで乗り換えることになり良かったわ。こんな予想だにしなかった体験ができるなんて、世の中捨てたもんじゃないわね。と今朝まで腹痛に苦しんでいたとはいえ、やや上機嫌でした。通路を進んで、ご年配のご婦人が二人乗っていらした客室に空きがあったのでドアを開けてそこに入り、このご婦人方の向かいに向き合って座りました。座席指定があるのかも何もわからず、ドギマギしながらでしたが、コントロールが来た時に聞けばいいかしらと思い、またトゥールで乗り換えると聞いた時から「病み上がりの開き直り精神」を発揮していましたので、まあ何事もなかったように座っていました。「これでブロワで降りればいいのね。何とかたどり着けそうね。」と二人で話し、ちょっと安心したこともあったのでしょう、汽車に揺られながらまたまた眠りこけてしまいました。それでも今度は乗り過ごすまいと、時々目を開け様子を確認したりしていると、向かいのご婦人方が「ねえ、あなた達、昨日の夜は一晩中ダンスを踊っていたの?」「はっ?ダンス踊っていませんけれど…。」「だってよく眠るから、ダンス踊ってたのかと思って。」と言われてしまいました。

レマン湖

photolibrary

トゥールの駅の様子

この時、まさに日本とフランスの文化の違いを肌ではたと感じました。列車で若い女子学生が眠りこけているのを見て、一晩中踊りあかしていたのでは?と思うこと自体、日本では考えられませんものね。しかもこの当時に。こちらの方はこういう時、「ダンス」ってひらめくんですね。こんなことに驚いているうちに、どこかの駅で、今度は若い同年代の男子学生風の子がいかにも一人旅といった面持ちで乗ってきて、客室は5人となりました。ベージュのチノパンに白のシャツ、髪はブロンド、肌は白く、意識してやっているのではないのでしょうが、なんかベージュと白で上から下まで上手くコーディネイトされていて、やっぱりこちらの人はこういう色が似合うし、ごく自然な感じでよいわねと感じました。背も高くて今風に言うと結構イケメンな男の子でした。

たぶん、片言のフランス語で3人のフランス人達と適当なお話をしながらガタコトと汽車に揺られていたのだと思うのですが、途中の駅で彼が降りてしまいました。あらっと思っていると、あろうことかホームから窓越しに(実際、ホームは列車の通路側で、私たちの客室の入り口のドアと通路の窓越しだったのですが)私たち二人に、「こっち、こっち、降りなさい。」みたいなジェスチャーをするのです。「えっ、降りるの?」「そうそう。早く降りて!」みたいなジェスチャーでのやり取りがさらにがあり、もう頭の中が「また? ?? ??????」状態で、誰を信じてよいのやら…。でもとにかく降りなさいと言ってくれているし、そんなに悪い人でもなさそうなので、とりあえず信じて降りることにしました。「ねえワニちゃん、降りましょう。」と荷物を取って、それにしても降りるんだったら、もうちょっと事前に言っておいてくれればいいのにねぇと思いながら、ここでもあわてて汽車を降りました。そこは本当に小さな駅で、その青年が「今度はこの汽車に乗るんですよ。」と教えてくれて、それで別れました。その教えてもらった列車に乗れば確実にブロワまで行けることは、何かでその場で確かめた記憶があります。それでどのくらいの時間がかかるのか確認しようと思い、改札かどこかで(フランスは切符をcomposterしてホームに入るので改札口なんてないですよね。)うーんよく覚えていないのですけど、プルーの膝丈の上っ張りを着た若い駅員さんと思われる青年に聞いてみました。どのように聞いたかは定かでないのですが、返ってきた返事はよく聞き取れなかったのですが、なんでも「…km」と距離を答えてくれたのです。私は所要時間を聞いたつもりでしたが、距離を答えられてしまいました。だからと言って時間を聞き返せるわけでもなく、やっぱり私、若かったんですね。でも思えばフランス人ってよく距離を言いますね。日本では距離を「どのくらい?」と聞かれると、まず「歩いて何分。」とか「車で何分。」とか時間を言いますけれど。こんなところも文化が違うのですね。でも距離のほうが絶対的で正確ですね。日本人はやはり曖昧さを好むのでしょうか? 実際距離を聞いてもどの位なのか実感として見当もつかない当時の私でした。

こんなことを思いながら、汽車に乗り、この小さな駅を出発し、やっと目的地のブロワに到着しました(ホッ!)。どんな駅だったのか覚えていないのですが、駅を出てすぐタクシーに乗り、ホテルリストを見せて「このホテルま

レマン湖
無事の到着に一安心。

でお願いします。」と運転手さんに頼み、何の問題もなく無事にホテルにたどり着きました。あのように日の長いフランスの夏でしたが、もうとっぷりと日が暮れて、暗くなっていたのでおそらく10時半は回っていたと思います。

「やれやれー。着いた!よかったぁ。」

ホテルのロビーで、当然マダムにはお会いしたと思うのですが、とにかく一安心でした。お部屋に入ると、なんとかわいらしいお部屋でした。

 

わぁー、素敵なお部屋!!なんてかわいい壁紙なの~~~~~バタンキュー。

 

 

長かった一日汽車の旅を終えて

まあホントに無事にブロワまで来れました。よかったです。翌朝、ホテルの食堂でみんなと無事に再会を果たし、「小松さん、大丈夫?」「小松さん、よく来れたわね。」「小松さん、ご無事で何より!」「小松さん、フランス語OKだった?」「みんな心配してたよ。」などと温かい言葉をかけてくれました。

皆さん、本当にご迷惑とご心配をおかけいたしました。ごめんなさい。

思えばル・マンで一回乗り換えればよいと思っていたところ、実際は3回も乗り換えてようやくたどり着いたのですから自分でも驚きでした。いざとなると人間強くなるものです。もう日本だったら言葉は使えるし、一人でどこへでも行けると妙な自信がつきました。
後年、トゥールへはパリから2回ほど行き、いずれもブロワを通ってトゥールの手前のサン・ピエール・デ・コールという小さな駅で乗り換えてトゥールに行きましたが、この時はこの逆の方向で、トゥールからサン・ピエール・デ・コールを経てパリへという路線の途中のブロワで下車したのですね。現在のSNCFの路線を調べますと、サン・マロからブロワまではTGVを利用してパリ経由でサン・ピエール・デ・コールで乗り換えるか、当時のようにル・マンで乗り換え、トゥールで乗り換え、サン・ピエール・デ・コールでもう一度乗り換えるコースもまだあるみたいです。でも、もちろん途中までTGVでササッと来れるので所要時間は5~6時間のようです。当時は、何しろホテルで休息してから、おそらくお昼頃出発して暗くなってからブロワのホテルに着いたので、到着時間はおそらく夜の10時頃で、半日ぐらいかかっていたかもしれません。
それにつけても、この貴重な体験は、その後の自分の生き方に大きな影響を及ぼしたことは事実です。最初はどうなることかと不安でしたが、周りの方々に助けられながら、何とか無事に目的を果たせたのです。
やっぱりホテルに着いた時はうれしかったです。安心しました。

皆さま、ありがとうございました。

この旅行中、フランスの地方都市やヨーロッパの主要都市のいくつかのホテルに泊まりましたが、覚えているのは、パリのHôtel Palais d’Orsayとこのブロワのホテルだけです。やはりこのホテルには、かなりの安堵感をもって泊まった為かお部屋の様子をしっかりと覚えています。かわいい小花柄のグリーン系の壁紙が張られていて、ベッドは支柱が金色のポールで、何かおとぎ話のようなお部屋でした。その後、日本で流行ったペンションの一室みたいな感じだったかもしれません。その頃はまだペンションも日本になく、ホテルといえば白いシーツのビジネスっぽいイメージがありましたので、病み上がりでも新鮮な感動があったのは覚えています。きっと神様のちょっとしたプレゼントだったのかも知れませんね。

 

ロワールの古城めぐりとフランス南下の旅

ロワールの古城でお城の入り口から門までの電車にて
運転席に乗せてもらって(山さんと)

カルカッソンヌのお城の前で整列
(右からまりちゃん、ワニちゃん、Sさん、Nさん、私)

Mauger Bleu フランス語の教則本

さあ、無事に到着したブロワでの翌日は、ロワール河周辺に点在する中世の古城めぐりです。シャンボール城やシュノンソー城を見学し、ヴェルサイユとは違って、こちらはいかにも「闘いの城」といった堅固な雰囲気とそれに反するような優雅な佇まいを感じました。夜はブロワに戻ってブロワ城のSon et lumièreを楽しみましたが、もちろん聞こえてくるフランス語がわかるわけではなく、フランスの歴史を通暁しているわけでもなく、何をやっているのか不明(?)というのが正直な感想でした。


その後、私たちはマニュエルと共にフランスを南下し、リモージュ、モントーバン、カルカッソンヌ、アヴィニョンを経てニースへと向かいました。中でも印象的だったのが、陶磁器の町「リモージュ」とヒッピーの町「アヴィニョン」です。あの明るい紺色の磁器のリモージュ焼きのリモージュです。通りにずらっと並んだ磁器屋さん。メインはあの濃いブルーの磁器で工房も見せてもらったのですが、あの焼く前の白い形の出来上がったものがあちこちに所狭しとゴロゴロしていて、何とも工房の現場の雰囲気が良い感じでした。小さな花瓶と(大きいのが欲しかったのですが、持ち運べないし、ましてや日本に送ってもらう手配などどのようにしてよいかわからず)手のひらに乗るくらいのミニチュアの磁器の応接セットを買いました。これはその後の移動のたびに、タオルや洋服で厳重に包み、「どうか割れませんように。」とお祈りしながらスーツケースに忍ばせて運び、東京まで無事でした。


「アヴィニョンの橋の上で」の歌で有名なアヴィニョンは当時、ヒッピーの町で至るところにヒッピーがグループを作ってたむろしていました。フランスの古い街並みと、ヒッピーの現代的な風俗のミスマッチが不思議な雰囲気を醸し出していて、一種独特な町でした。あの「アヴィニョンの橋の上で」の橋も見学しましたが、その昔フランス語の教則本の「Mauger blue」に写真が載っていたのですが、その通り、橋の中央で破壊されていて、そのまま修復されずに残っており、あの歌はどのようにできたのか謎でした。皆、あの橋の上で踊ったのでしょうか?

 

さあ、明日はいよいよ憧れの南仏コートダジュールの海!ニースです。万歳!

 

 

バス旅行

こんな風に毎日バスで移動を続け、フランスも半周終えました。ここでちょっとバス旅行の車内の様子などを思い出してみることにします。皆バス旅行にもすっかり慣れ、というかバスに乗ると安心と疲労ですっかり眠り呆けていました。そこで今でも忘れられないのが、マダムの目的地に着いた時の「Allô, allô, nous sommes arrivés à .....」という皆を起こす大きな声です。この声で「着いたのねぇ。」と、もっさりと目を開け、「ふ~ん、着いた。着いた。」と新たな緊張が少し走り、窓から外の景色を眺めます。すると地元のご婦人方が「このバスの一行は一体どこの国の人かしら?」といった様子で、じーっとこちらを見つめています。私たちも車内から「ねぇ、なんかすごーく見られてるわね。この平べったい顔の人たちはなんなの?って思われているのよ、きっと。」なんて話したりしながらバスを降ります。そして大概の場合、「中国人?」と聞かれ、「日本人。」と答えるパターンで、日本人がフランスの地方ではまだ知られていなかったのですね。
また、車内で比較的皆が元気な時は、車内カラオケ大会(ではなく、当時当然カラオケなどはまだ存在していなく、アカペラという言葉もなく、単にのど自慢大会でしょうか?)もやりました。度胸とのどに自慢のある人は、「我こそは!」と名乗り出る段取りですが、あまりそういう輩はおらず、皆尻込みをしていました。そういう中で、マリちゃんが「私たちの為に~い~、と~けいをとめて~え~」とか「聞~かせ~てよ~、愛~のこ~とば~」などをきれいな声で歌ってくれました。 
 

また、マダムもフランスのシャンソンの「Mon coeur est un violon(私の心はヴァイオリン)」を一度だけフランス語で歌ってくださいました。これはジャクリーヌ・フランソワが唱っているLP盤が自宅にあってよく聞いていたのでなじみのある曲でしたが、その雰囲気たっぷりな歌いぶりに、マダムのいつもとは違う一面を見せていただき、皆感激しました。

モンペリエ

カルカッソンヌからアヴィニョンへ
途中モンペリエで昼食
時間が早すぎたので少しお散歩しました

それとフランスは一台のバスをチャーターしての一周旅行でしたが、他の国々でもほとんどバスで観光スポットを巡っていましたが、当然、参加者どなたかのお誕生日に当たる日があります。するとその日は、車内でマダムの「今日は誰それさんのお誕生日です。誰それさん、おめでとうございます。」といかにもハッピーなアナウンスがあり、皆で「ハッピーバースデートゥーユー」を歌い、拍手でお祝いしました。そしてマダムからおいし~いお菓子のプレゼントがあるのです。お誕生日の本人にとっては、異国で仲間から祝ってもらうまたとない良い記念のお誕生日となりますね。
フランス一周旅行のドライバーのマニュエルとも、休憩地や目的地では皆打ち解けて片言のフランス語や日本語でお話しして、適当にからかい、からかわれたりして楽しんでいました。「マニュエル、元気?」「マニュエル、有難う!!」「マニュエル、おはようございま~す。」「マニュエル、バイバイ!」この辺りはバイリンガルで時に応じて使い分け、バスの乗り降りのご挨拶となっていました。その頃は何も思わなかったのですが、おそらく毎日、目的地に時間通りに着くための調整とか、渋滞に巻き込まれないようにとか、ガソリン補給とか色々と気遣いがあったに違いありません。いつもスマイリーで、安全運転で、彼のおかげで私たちは無事に旅を続けられて本当に彼には感謝、感謝です。さあ、皆気分良くウトウトし始めたところへ、マダムの声:

 

“Allô, allô, nous sommes arrivés à Nice ! ”

 

 

ニース

ニース
憧れのニースの海岸
ニース

プロムナードデザングレ(英国人の散歩道)の 現在の様子

やってきました!憧れのコートダジュール!!紺碧海岸。あのよく見る観光ポスターのような紺碧を想像していたのですが、私の印象では、なんてこともないごく普通の海でした。普通の「海は広いな大きいな~、行ってみたいなよその国~」(ハイ来てます。)という感じでした。ちょっとがっかりしたものの、それでもニースです。ここの海で泳げるのです!朝ホテルでの朝食後、水着に着かえ、ジーンス、ノースリシャツで武装(?)して、ホテルを出て、大きな通り(「英国人の散歩道」と言われている通りです。)を横切って海岸に下りました。マニュエルも一緒です。するとなんとこの海岸は砂浜ではなく、砂利というか砂利をもう少し大きくした直径8~10cmぐらいの石の浜で、これには参りました。歩きづらいのなんのって。あのごつごつが足に当たって、歩くたびに足の裏にごつんと響くのです。「ねえ。ニースってやーねー。こんな石だと思わなかったわね。」「ほんと、びっくり!知らなかった!」とかみんなブツブツ言いながらも適当な場所を決め、陣取りました。と言っても海水浴客の少ないこと、少ないこと。日本の湘南海岸の芋を洗うような密集海水浴場とは段違いで、どこでもお好きなところでご自由に!と言われているみたいでした。この日は一日中この石浜で過ごし、海に入って泳いだり、或は泳ぐ真似をしたり、オイルを塗ってニース焼けを期待したりしました。それにしても、あの « 紺碧 »と言う言葉、今でも信じられないです。その昔、万年筆メーカーの「ペリカン」か「モンブラン」のインクに « Azur »というブルーブラックのカラーがありましたが、あれもホント?って言いたいのですけれど。私は、南仏海岸にはその後も行ったこともないので確かめたことはないのですが、どなたかあの紺碧の海というキャッチフレーズが正しいかどうか教えてくださいませ。
一日中海水浴を楽しんだニースを後にして、マルセイユ、モナコにもちょと足を伸ばしてから、1968年冬季オリンピック開催地のグルノーブルを経て、シャモニーに寄り、国境を越えてジュネーブへと向かいました。グルノーブルオリンピックと言えば、フランスのジャン・クロード・キリー選手が三冠王に輝いた大会で、あのクロード・ルルーシュ監督の記録映画「白い恋人たち」のテーマ曲が有名になりましたね。「ラララララララ~ ニイ サン/ラララララララ~ ニイ サン」っていうあれです。えっ、 キリーもこの曲もご存じない!わー、それは失礼いたしました! 
駅舎はオリンピックの際に建て替えたらしく、やたらときれいで近代的で、フランスらしくなかったのをよく覚えています。


雨のシャモニーからジュネーブへ

当時のレマン湖

アルプスの麓、シャモニー。ここでロープウェイにのって山頂まで行き、パノラマの景色を堪能する予定だったのですが、残念なことに雨の一日で、ロープウェイは欠航とのこと。ここは結構楽しみにしていただけにがっがりしました。遠くから雨にむせぶモンブランの姿を拝むだけでした。
思えば、私たちにとって最初の外国であったフランクフルトに降り立った時も小雨がぱらついており、パリ滞在でも結構雨が降っていたので、おそらくメンバーの中に雨女、雨男が大勢いたのかもしれませんね。皆とても残念で、がっかりで、意気消沈してこの地を後に国境へと向かいました。
ところでこのシャモニーという地名、フランス語でChamonixと綴りますけれど、現地の人たちは「シャモニックス」と最後の「x」を発音するのだとマダムから教えていただきました。それ以来、皆、ちょっとかじっただけの耳学問で、かっこつけて「シャモニックス」と言っていました。でも現在はどのように呼んでいるのでしょうね。
さて、いよいよフランスからスイスへと国境を越えて行きます。島国育ちの私たちにとって、陸路で国境を超えるという感覚がイマイチぴんとこなくて、興味津々でした。マダムからは、「おそらく各自のパスポートを調べられることもないと思いますけれど、確実ではありません。もしかしたら検札があるかもしれません。」と伺ってはいましたが、やはりなんか不安でした。
街の名前はすっかり忘れてしまいましたが、国境に着くとそこは高速道路の料金所のようなところで、各ゲートに検札係の人がいて、バスがそこで停車しました。皆の表情に一瞬緊張が走りました。検察官の方が乗り込んできて、めいめいパスポートのチェックがあるかもしれないと、パスポートを各自手に持って、車内から様子を窺いました。するとなんということもなく、マダムが何か一言二言フランス語で話しただけで、もうバスはスーッとゲートを抜けて進んで行き、検察官が乗り込んでくることもなく、皆ホットしました。あまりのあっけなさに拍子抜けで、さっきまでの緊張感はどこへやら。「ナーンダ、国境を越えるってこんなことなのね。」これ率直な感想です。翌日はまたフランスへ戻ったのですが、復路はもう完全に記憶にはなく、往路の経験ですっかり安心しきっていたのですね。今では考えられないほどの緊張感でした。まさに昔の海外旅行感覚です。

ジュネーブで購入したお気に入りの腕時計

ジュネーブでは一日のみの滞在だったので、レマン湖のあの大きな噴水を見てから、ショッピングに走りました。スイスといえばウォッチですね。そうです。オメガです。当時はけっこう皆オメガにあこがれて、あのウォッチを腕につけてみたいと誰しも思ったものです。パリでエルメスを知らなかった私もオメガはさすがに知っていて、以前からこの日を楽しみにしていました。確かマダムに連れて行っていただいたと記憶していますが、免税店かオメガのお店かよく覚えていないのですが、とにかくオメガのいろいろな腕時計が並んでいるお店に行って、ワクワクでした。今でこそおしゃれな腕時計がたくさんありますが、その頃は私が若かったせいもあるのでしょうけれど、実用的なフツ―の角型か丸型で文字盤もごくフツーのものが主流だったと思います。が、ここではオシャレ―な感じのがあり、私は文字盤が紺でベルトも同色、針が白で、金色の縁の縦の部分が少し太めで当時としてはやや斬新と感じたのがあったのでそれを買いました。もちろんゼンマイ式の手巻きです。まだまだクォーツが主流になる前のことです。この時計はとても気に入って、何回か修理もしてずっと使っていたのですが、やはり寿命でしょうか、今は引き出しの中でおとなしく眠っています。
その頃は、1964年の東京オリンピックの公式時計が日本製だったので、日本の時計メーカーも世界に名を馳せるようになっており、マニュエルが「セイコー、très bon !」と言って両腕で大きな円を描いておどけてくれて、私たちは「オメガ、très bon !」とおどけ返したりして、大いに笑って楽しいショッピングでした。

 

(つづく)