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楽しかった 楽しかった 研修旅行 (小松洋子様) 第2弾

 

小松洋子様プロフィール

中学生の折、フランス語に出会い、少し習う。そして興味のあったフランスと周辺の国々を周る日仏文化協会の第4回研修旅行に学生時代に参加。30代にて商業フランス語を学びはじめ、40代ではフランス留学も経験。 フランス古書専門店、在日フランス語圏大使館、フランスのフォワーダーなどに勤務の傍ら、翻訳、通訳も手がける。 介護離職し、フランス語と距離を置く時期もあったが、お母様を看取った後、フランス語学習を再開。

 

モン・サン・ミシェル

現在のモン・サン・ミッシェルの風景
現在のモン・サン・ミッシェルの風景

というわけで、マニュエルと運命を共にしてパリを後に、バス旅行が始まりました。
今でこそ、モン・サン・ミシェルは世界遺産に登録され、日本人にもよく知られていますが、その頃は世界遺産に登録される前で、私も不勉強で何にも知らず、マダムから日本の江の島のようなところで、引き潮の時は陸続きで島まで往復できるけれど、満潮時には海水が上がってきて、島に渡れなくなるとの説明がありました。一行が訪れたときは干潮時でバスで往復できました。
そのように日仏文化協会さんが企画の段階でプランニングして下さったのだと思います。
今のように橋もなく、素朴なところで、バスを降りて、修道院の上まで登りました。結構な観光客の数でしたが、現在の写真を見ると、もっと大勢の観光客で賑わっている様子で、やはり隔世の感がありますね。

 

 

参加者の方々

参加者の方々
このバスで2週間でフランスを一周しました

さて、モン・サン・ミッシェルを後にサン・マロへと向かいました。東京を発って10日あまり、皆、外国にも旅にも慣れ、緊張も和らぎ、参加者もさらに和気あいあいと楽しい旅は続きます。参加者は全部で40名ほどだったかと記憶していますが、もう少し少なかったかもしれません。メンバーの詳細は、記憶をたどってみると、共立女子大学の高橋邦太郎先生をはじめとして、ジェントルマンのドクターの先生、ステッキを持ったTさん、画家のK青年(当時すでに熟年?でいらしたけれど、画家の方らしく赤いシャツに茶のジャケットがよくお似合いで、、若々しく、みんなから”K青年“と呼ばれていました。)、それに異彩を放っていたアパレル業界4人組、社会人女性(?)、専業主婦(?)、家事手伝い(?)、および私たち学生などで、幅広い年齢層にわたっていました。学生は、マリちゃん、ワニちゃん、山さん達と私を含めて女子学生8名、男子はI君、アトムちゃんの2名で合計10名だったと思います。
今このように振り返ってみると、この頃はまだまだご年配の女性の海外旅行など考えられない時代だったのでしょうね。悠々自適の男性方がどなたもご夫人を同伴されていないですものね。今なら皆様熟年の方はカップルでご参加かもしれませんね。この頃はまだ男性中心社会だったのですね。これから世の中はだんだんと、女性がさらに(?)強くなってくるのですね。

 

サン・マロ ムール貝事件

思い出のサン・マロの現在の様子
思い出のサン・マロの現在の様子

モン・サン・ミッシェルからほど近い中世の城塞都市サン・マロ。旅行も10日も過ぎるとだんだんと私たちの行動パターンも決まってきて、グループに分かれる時も、なんとなく〝チョイ悪っぽい″グループと、〝チョイ優等生っぽい″グループに分かれたり・・・私は何故か〝チョイ悪っぽい″グループに所属していたので、毎夜、毎夜、ホテルを抜け出して街に繰り出し、あちこちと歩き回っていました。この日もいつも通り、夕食の後、ホテルを出て市内散歩&冒険に出ました。海岸を吹く夜風は肌に心地よく、3~4人のいつもの仲間とどこへ行くでもなくブラブラと街を歩いてたところ、どこでどう知り合ったのかは全く覚えていないのですが、地元の少年二人と出会い、いつしか一緒に歩いていました。


この二少年は、よく見るとまだ幼い顔つきをしていて、服装もブルーのスタジャンに半ズボンといういわゆる“お子ちゃまルック”でこんな夜に外を出歩いているなんてと思いました。が、なんとなく気が合ったのか、街を案内してもらうことになりました。歩きながら年齢を聞くと「14歳!」とのことで、ここでも私たちは「私たちも14歳よ!」とまたまた大ウソをつき、またまたまったく疑われず、複雑な気持ちで彼らについて行きました。


この町は、海岸にそって城塞がめぐらされており、その上を散策することができます。私たちはそこを彼らと一緒に駆け抜けたり、止まったり、心地よい夏の潮風を体に感じながら大いに楽しみました。そのうち何と彼らがポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけ吸い始めたのです。これには私たちもびっくり!!「ねぇねぇ、 この子たち14歳って言ってたし、どう見てもそのくらいにしか見えないけれどタバコ吸ってる!相当な不良少年だわね。ちょっとこわい!ねぇねぇ、どうする?」「うん、 でも私たちのほうがかなりお姉さんだから、 きっと大丈夫よ。人数も多いしさぁ・・・・」とたくましきちょい悪グループ女性陣。(この時は、確か頼りにすべき(?)男性陣のI君もアトムちゃんもいなかったと記憶しています。)


そのうちどういう経緯でそうなったのかこれも覚えていないのですが、土地の名産のムール貝を食べに行くことになり、レストランに連れて行ってもらいました。どのようなレストランに行ったかは皆目記憶にないのですが、14歳の彼らの行きつけ(?)のところなのでご想像ください。当時日本では皆ムール貝などまだ見たこともなく、何しろ初めてのムール貝体験でした。蒸したムール貝が大き目のボール(一人前)に山盛りにされ、それが私たちの前にドーンと置かれ、一同その量の多さにビックリ!おそらく一人前はムール貝30‐40個はあったと思います。何しろ山盛りでボールから3㎝ぐらいは盛り上がっていました。これはかなり印象的だったので今でもしっかりを覚えています。


ムール貝
ムール貝

さてさて山盛りのムール貝、フォークもナイフもついてきません。もちろん今でこそヨーロッパ人でも使えるお箸もなし。いったいどうやっていただくのでしょうか?私たちがキョトンとしていると彼らが食べ方を教えてくれました。まず、両手でムール貝を蟹のハサミのようにひとつずつ持ち、次に右手に持ったムール貝をピンセットのように使って、左手に持ったムール貝の身を挟んで取り出して口に運びます。そして今度は左手に持った空になったムール貝で、右手のムール貝の身を挟み取り出して口に運びます。両手の貝が空になったら次の2個を同様にして食べます。この方法で次々にあのおいしいムール貝を文字通り平らげていきます。これがまた、私にはすごく感動的で、その上とてもおいしくて、興に乗って次から次へともう止まりません。気が付くと、周りは皆ほどほどに常識的な量でストップしているのに、私一人あの山盛りのムール貝をほとんどいただいてしまいました(これが後で大変なことになるのですが・・・)。そしてこの上ない幸福感に浸っていたせいか、その後のことは全く覚えておらず、思い出そうと努めましたが全くだめでした。

 


サンマロにて町を案内してくれたサンマロのギャルソン
サンマロにて町を案内してくれたサンマロのギャルソン(少年ら)と一緒に(右から山さん/Sさん/ワニちゃん/私)

と、ここまでは何事もなくきわめて順調だったのですが・・・この翌朝、この旅行中の最大の危機を迎えたのです。明け方から、激しい腹痛に見舞われ、七転八倒の苦しみでベッドの上でのたうち回り、とても尋常に起きて朝食がとれる状態ではありません。「あ~、昨日のムール貝!!あ~、食べ過ぎたわ!あ~、お腹が痛~い。あ~、もうダメ!昨日あんなに食べなければよかった!やっぱり食べ過ぎたわね。あ~、お腹が痛い!皆ぐらいにしとけば良かった!なんということ!なんて意地汚い私なの! あ~、もうダメ!それにつけても今日はどこまで行くんだったっけ?とても起きられないわ。みんなと一緒にバスで移動なんて絶対に無理!あ~、お腹痛~い!あ~、私どうなるのぉ?」とこんな思いが頭の中をぐるぐると駆け巡り、ヒーヒーハーハ―言っていると同室の友人も目を覚まし、「コマっちゃん、コマっちゃん、ちょっと大丈夫?」「ダメ~、大丈夫じゃないの」と言ってる間に彼女がマダムを呼んできてくれました。マダムが血相を変えて(確認できたわけではありませんが、おそらく)飛んできてくれて「小松さん、大丈夫ですか?」「う~ん、これではバスに乗れないわね。困ったわね。」と心配と困惑のご様子。そのうちホテル(サン・マロの田舎町のこじんまりとしたファミリアルなホテルだったので)のご主人もいらしてくださり、心配してくださいました。そしてマダムとご主人で何やら話し合い、結局「小松さん、あとから汽車で次の宿泊地のブロワまで追いかけてきてください。フランス語なんとかしてね。」(マダムは、私が以前にフランス語を少しやっていたことをこの時ご存じでした。) ということになり、私は「ええっ、汽車で追いかけるぅ~? ど、ど、どうなるの!そんな、そんな・・・」と胸は不安でいっぱい、お腹は痛いわでもう万事休すと起き上がりかけたもののまたベッドにバターン。

 

マダムが「とにかく汽車に乗ってル・マン(あの24時間耐久レースのル・マンです。)で乗り換えて、ブロワまで来てね。駅からはタクシーでホテルまでくればいいですからね。」それで同室の友人のワニちゃんが一緒に残ってくれることになり、彼女はホテルの玄関でバスで出発する一行を見送ってから(後で聞いた話ですが、この時の皆を見送るワニちゃんが何とも不安げな顔をしていたそうです。)、部屋に戻ってきたワニちゃんに「ねぇ、皆行っちゃった?」「うん。行っちゃった。ねぇ、 コマっちゃん、大丈夫?大丈夫?」「う~ん・・・置いてかれちゃった・・・」、とそこへホテルのご主人が不思議なものを手にして、様子を見に来てくださいました(これはもしかするとマダムのご指示だったのかも知れません)。その不思議なものとは、ワインの空瓶を石膏かセメントで覆ったもので、形とコルク栓でワインの瓶と容易にわかるのですが、中にお湯が入っています。それをベッドに横になっている私のお腹の上にのせてくださいました。そうするとお湯の程よい暖かさがじんわりとお腹に効いてきて何とも気持ちが良いのです。いわゆる日本の湯湯婆(湯たんぽ)と懐炉(カイロ)を足して2で割ったようなものですね。まぁ、湯たんぽのカイロ的使用とでも言いますか、ところ変われば品変わるです。このフランス式〝湯たんぽ系カイロ″のおかげ(かどうか実際は不明ですが、一応)でだんだんと痛みも治まってきました。それにしてもフランス人も生活の知恵でこういうものを使うのだと初めて知り、体調を崩したものの彼らの実生活の一部に触れられて貴重な体験をしました。あの“ワイン空瓶湯たんぽは足にも使えるし、ヌクヌク感をどこでも味わいたいところで使用できるので便利だとずっと思っています。今でも使わているのでしょうかねぇ、あれ?


そうこうするうち、お昼頃になって腹痛もおさまり、何とか出かけられるかしらと思えるようになりました。でも次なる不安は予想だにしていなかった汽車の旅です。切符も買わないといけないし、第一どこ行きに乗ればいいのかも、時間がどのくらいかかるかもわからないし、距離がどのくらいあるのかも知らなくて、わかっているのはル・マンで乗り換えブロワまでということだけ!!あ~、なんということでしょう。神様お助けを。とお願いしたからではないと思いますが、なんとそのホテルに日本人の男子学生さんが一人(stageだか宿泊していたのだかまったく記憶がないのですが、おそらくstageだったと思います。でもあの一つ星ホテルでstageというのも・・・ですが)いらしたのと、以前大阪にいらしたことがあり片言の日本語ができるホテルの娘さん(20代半ばくらい)がいらしたのです。そこで少しずつ元気を取り戻した私が、汽車の旅に耐えられるか少しホテルの周りを散策してみることになり、その学生さんと海岸まで散歩しました。なぜか都合よく海岸にベンチがあり、そこに座って休んだり歩いたりしながら、私はこれからの汽車の旅が不安で不安でそればかり気にしていました。ただ海風が冷たく、他は静かで穏やかで、あの昨夜の冒険騒ぎがうそのようでした。ホテルに戻り、何とか歩いていかれそうなので、汽車でみんなを追いかけることにしました。

 

 

 

一日汽車の旅

最後まで残ってくれたワニちゃんと
最後まで残ってくれたワニちゃんと

そこでそのホテルの娘さんがサンマロの駅まで車で送ってくれ、何度も「Ça va mieux ?(大丈夫?良くなったの意)」と聞いてくれたおかげで「Ça va mieux ?」というフランス語もその時おぼえました。

今でしたらもう齢を重ねて図々しくもなり、勿論ブロワまでの距離や所要時間も聞いたことでしょうに、当時はそんなことも聞けなくて、又聞く語学力もなく、何とも気の付かないボサーっとした私でした。どこでどのように切符を買ったのか記憶にないのですが、おそらくその日本人学生さんかホテルの娘さんが買ってくれたのか・・・。さすがにフランス全土の地図がほしくなって駅のキヨスクかどこかの売店で「Un plan, s’il vous plaît(地図をくださいの意)」と言ったのですが、私の発音が悪くて聞き取ってもらえず、仕方がないので持ち歩いていた大修館のスタンダード仏和事典のポケット版(厚さ1.5㎝ほどの黄色い表紙のもの。ちょうど私が学生の折、語学の辞書がすべて一回り大きくなって今のサイズになったのですが、その前のサイズでこれは厚さのみが薄くて語彙数も極端に少ないものでした)を取り出し、planを引いてそれを指さしながら「これです。」と聞くと、「ああ、plan(地図)ね。ありますよ。」と見せてくれたのがサン・マロの観光地図!「う~ん、そうではなくフランス全土の、La France」とかこちらも必死です。結局フランス全土の地図は手に入らなかったのですが、何とか汽車にのりました。


汽車のボックス席に座ってコントロール(検閲)の車掌さんがきて、チケットを見せながら「ブロワまで行きたいのだけれどル・マンで乗り換えればいいんですよね?」と確認し、「やれやれ、とにかく、なんでも、つまるところ、ル・マンで降りればいいのよね。とりあえず。そして緊張しながらもなんとか気持ちも少し落ち着き、それまでの旅の疲れもあったのか二人ともウトウトとしてしまったのです。ハッと気が付くと後ろの座席にいた黒人の方が「ル・マン! ル・マン!」と教えてくれていたのです。きっと車掌さんと私たちの会話を聞いていてくれたのでしょうか?私たちがここで降りることを知っていてくれて教えてくださったのです。「えっ、ル・マン?あっ、降りなきゃ、降りなきゃ。」急いで荷物をもって(スーツケースはバスで先に運んでもらっていたので、そこは身軽でした。)飛び降りました。さて、これからどうするんでしょう。このあたりの記憶も飛んでいて、おそらく何とか方向を間違えずに次なる列車に乗ったらしいです。


やれやれ、これで一安心、これでブロワまで行ける!とやっとほっとしたのもつかの間、ブロワまで行くにはトゥール(あのトゥール・ポワティエの戦いのトゥールです)で、もう一回乗り換えると誰かから聞いたのです。「またァ、また乗り換えるの?えぇ!」「なんか聞いていたのと話が違うわねぇ。また乗り換える?わかったわ。もうこうなったら何度でも乗り換えます。OK!ダイジョウブ!」今朝まで体調を崩してベッドでのたうち回っていたなんて信じられない!ホントに。というわけで、トゥールで降り、次の汽車のホームはどこかと探しているうち、ワニちゃんは空腹に耐えかねている様子。考えたら、朝から私に付き合ってくれてランチも取ったかどうか?そうよねぇ。何か口にしないといけませんね、ワニちゃんは。それでトゥール駅のホームに差し掛かるあたりに、ちょうど良くカフェがあり(トゥールは終着駅で何本かのホームがあり、改札口までフラットで行けて、そのホームと改札口の中間の隅の方。日本の東京でいえば東急池上線と多摩川線の終着駅の東急蒲田駅で、その場所には立ち食いそば屋さんがあります。フランスのSNCFではカフェですね。まぁ全体のスペースがまったく違いますけれど。)


そこで彼女はスパゲッティを、私はジュースを注文して一息つくことにしました。あぁ、よくここまで無事に来れたものです。プチ乾杯!なんて優雅な気分ではさらさらなく、残りの旅程も無事にクリアして何とかブロワまで到達しないと、というまだまだ緊張感と不安に包まれたひと時でした。私もジュースを飲んでも問題ないか不安だったのですが、一口ずつ様子を見ながらゆっくり飲むと、何ともなくほっとしました。そのうち汽車の発車時間が迫ってきました。ところが、やはりフランスののどかな田園地帯で、注文のスパゲッティがなかなか出てきません。

 

旅の途中ののどかなランチ
旅の途中ののどかなランチ
正面後ろ向きがマダム

「あ~、早く持ってきて下さい。お願いします。汽車の時間が迫っています。このままだと乗り遅れてしまいます。お願いします。」これがフランス語でササッと言えればよいのですが、何しろこの頃の私の語学力ではチョイと難しくて・・・「Dépêchez-vous, s’il vous plaît」としか言えませんでした。イライラしながら待つこと何分ぐらいだったか、残念ながらよく覚えていませんが、やっと来ました。ところがこのスパゲッティが熱くて、ワニちゃんがすぐいただけないんです。スパゲッティをフォークですくっては「フーフー」と冷ましながら、時間との闘いです。ここはよく覚えているのですが、あのスパゲッティナポリタンの赤い色とフォークの銀色、椅子の鉄パイプの黒、あと周りの駅の雰囲気などがはっきりと視覚的に思い出されます。(余談ですが、人間、空間とか時間の記憶は薄らぎますが、視覚的なものは結構記憶にあるのだと、この原稿を書くにあたってしみじみ思いました。)「ねぇワニちゃん、速く速く!がんばって!汽車に遅れちゃう。速く、速く食べて!」と必死にせかせて、走ってホームに直行!「待って!待って!」と叫びながらホームに駆け込み、列車の階段になった昇降口に乗り込みました。ギリギリセーフでした。この時、「待って!待って!」と叫んで走っているときに、この期に及んで面白いことに気が付いたのですが、日本語でも命令形が「エ」(「待って!」)で終わり、フランス語も「エ」(“attendez!”)で終わり、末尾の母音が同じだと思って不思議でした。人間ってとっさの時に思いもかけないことを考えるものですね。もう汽車に間に合わないかと必死で走っている時にこんなことを思うなんて滑稽ですね。

 

(つづく)